【2017年11月15日 Albumism】「『サタデー・ナイト・フィーバー』40周年を語る」(その1)
「ステイン・アライヴ」ビデオ(バージョン2)
『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックの発売40周年にあたる11月15日に、古今の名アルバムを論じるサイトAlbumismに研究者グラント・ウォルターズによる長文記事(オンライン版2017年11月15日付【TRIBUTE: Celebrating 40th Years of the ‘Saturday Night Fever’ Soundtrack(トリビュートー 『サタデー・ナイト・フィーバー』サウンドトラック40周年を祝って】) が登場しました。
以下に内容を簡単にまとめてご紹介します。簡単といってもプロデューサーであったアルビー・ガルーテンとの電話インタビューの内容を含む長い論考ですので、2回に分けてご紹介します。
『サタデー・ナイト・フィーバー』といえばブルックリンだが、実はこのサウンドトラック、当初はフランスの片田舎にある18世紀の建物で生まれたのだ、と聞けば驚く人もいるかもしれない。1890年夏、死の直前にファン・ゴッホが描いたシャトー・デルヴィルは、ショパンの家だったともいわれる。1970年はじめにレコーディング・スタジオに改装され、エルトン・ジョンをはじめ大勢の有名ミュージシャンが利用した。エルトンが作成したのは、まさに『ホンキー・シャトー』である。ユーライア・ヒープ、イギー・ポップ、マーヴィン・ゲイ、フリートウッド・マック、キャット・スティーヴンス等も70年代にこのスタジオを利用している。
ビー・ジーズは、コ・プロデューサーだったアルビー・ガルーテンとカール・リチャードソン、それにバンド・メンバー(ドラムスのデニス・ブライオン、ギターのアラン・ケンドール、キーボードのブルー・ウィーヴァー)とともに、1977年初頭、このシャトーに滞在していた。1976年12月にロサンジェルスのフォーラムで録音した『ビー・ジーズーグレーテスト・ライヴ(Here At Last…Bee Gees…Live)』をミキシングするためだ。ホームベースにしていたマイアミを一時的に離れて、フランスでレコーディング・制作したのは経済的な理由(税金対策)だった。
1970年代はじめに一時的にヒットに見放されていた時期を経て、ギブ兄弟はヒット街道復帰を楽しんでいた。アルバム『メイン・コース』(1975年)と『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』は、ビー・ジーズがもともと持っていたR&B志向を追究したもので、大衆にも批評家にも受けがよかった。すでにナンバーワン・ヒットも2曲飛ばしていた。いつ聞いても耳に残る「ジャイヴ・トーキン」とタイトなリズムの「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」だ。さらにスタイリスティックスの影響がある「偽りの愛」と心に訴える「ブロードウェイの夜」など、続々とヒット街道を驀進中だった。
ベテラン・プロデューサー、アリフ・マーディンに奨励されて『メイン・コース』のセッション時に登場したバリー・ギブのファルセットも、ビー・ジーズの新たな魅力として、この躍進に一役買っていた。すでに定評のあったギブ兄弟の鉄壁のハーモニーとみごとな対照をなすこのファルセットは、翌1976年にはビー・ジーズの音楽で中心的な位置を占めるようになっていった。
1977年初頭、ギブ、ガルーテン、リチャードソンのユニットは、シャトー滞在中にビー・ジーズの次のスタジオ・アルバムの作業を開始した。ガルーテンによれば、グループは『メイン・コース』と『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』で築いた成功路線で、行ける、という自信にあふれていたそうだ。「ぼくには失敗した経験がなかったし、カールもプロデューサーとしては成功しか知らない人間だった」と、ガルーテンはロサンジェルスの自宅からの電話インタビューで語ってくれた。「だから’ユー・シュッド・ビー・ダンシング’が成功して、手ごたえを感じ、ファンもついているし、これは行けるとわかっていました」
そんな彼らにもおそらくわかっていなかっただろう。その時のセッションから生まれた楽曲が、ビー・ジーズのヒット街道驀進を続行させるだけではなく、音楽的にも文化的にもひとつの革命を呼ぶことになった。
ギブ兄弟の長年のマネージャーであり、RSOレコードの創設者でもあったロバート・スティグウッドが、ニュー・アルバム制作中の彼らにコンタクトしてきた。イギリスの音楽コラムニスト、ニック・コーンが1976年7月のニューヨーク・マガジンに書いた記事「新しいサタデー・ナイトの儀式」をもとに映画をプロデュースしたいというのだ。当時、この記事はブルックリンの労働者界隈のディスコ・クラブで新しい生活様式、新しい音楽が生れている、というルポだとされていた(のちに、コーン自身が、この記事は実はフィクションだったと認めた)が、コーンが描いたキャラクターを大スクリーンで映像化したいとスティグウッドは考えたのだった。
そこで彼はビー・ジーズに、現在のプロジェクトはいったん中止して、新作の楽曲を映画のサウンドトラックに提供してくれ、と頼んだのだった。ガルーテンは、アルバム『サタデー・ナイト・フィーバー』のファイナルカットに使われた曲のほとんどが、スティグウッドがコンタクトしてきた時点ですでに書かれていた、と話してくれた。「そう、映画のことなんか知らなかったんですよ。まだ見てなかったし、情報もほどんどもらってなかった。映画用に書いた曲じゃありません。僕の記憶では、その前にロバートと一緒にバミューダにいた時に、彼らはすでに’ステイン・アライヴ’をおおよそ書いていたし、(フランス滞在中に)大半の曲のあらましもできていた」
『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラック(と映画)のパワーの中心となる曲は実にたったの5曲。ビー・ジーズのオリジナル「ステイン・アライヴ」「愛はきらめきの中に」「恋のナイト・フィーバー」。さらに「モア・ザン・ア・ウーマン」とイヴォンヌ・エリマンの「アイ・キャント・ハヴ・ユー」もビー・ジーズが書いた曲だった。
中でももっともアイコニックな楽曲は「ステイン・アライヴ」だろう。虚勢をはって通りを闊歩するトニー・マネーロの足取りが、歌のオープニングと完璧にシンクロして、作品中でもっとも印象的な場面のひとつになっている。バリーのファルセットのリード・ヴォーカルは高く高く限界までのぼりつめ、ストリートで生き延びることについてのメッセージはずしりと重たく、その逆説性が見事だ。ビー・ジーズのハーモニーと華やかなホーンとストリングスも、鐘が鳴り響くような効果をあげている。
何重にも重なった楽器と声、その後ろでは、どっしりと安定したビートが曲を前へ前へと駆りたてる。バンドのドラマー、デニス・ブライオンのスネアも聞こえるが、ほぼ完ぺきなドラミングは実はループである。機械のように正確なこのドラミングは皮肉にも人間の手で作られた。
「僕がボストンのバークリー(音楽大学)時代にいろんな音楽を聴いていた体験が根っこにあります」とガルーテンは話してくれた。「ハーレムで起こった果物屋台暴動事件のことを歌った、スティーヴ・ライヒの“Come Out”という曲があります。女性がひとり撃たれ、若者が何人も逮捕されて、抗議運動がおこりました。この曲には、若者が話す様子がサンプリングした『こうして血が流れた』みたいなフレーズがあった。ライヒはこれをループしていました。曲は変化していくけれど、ループはリピートする。これが記憶に残っていたんです。聞いたのは68年かそこらだったと思うんですけど。
シャトー・デルヴィルで作業をしている時に、デニス(ブライオン)の父親が心臓発作を起こして、デニスは急きょイギリスに戻ることになりました。で、ハモンドL100だか何だか、ひどいドラム・マシーン付きのオルガンがあったんです。だいたいドラム・マシーンってひどい音だけど、これもまたひどくって。LinnDrumが出る前ですからね、当時のドラム・マシーンはひどかった。そこで、『‘恋のナイト・フィーバー‘の一小節をとってループを作り、varispeedで調整してピッチやテンポを合わせればいい』って提案したんです。そしたら、カールが、『できると思う』っていうんで、バリーとカールと僕で’恋のナイト・フィーバー’を聴いてみた。ドラムスだけね。そしたらこれはいい、これならいける、という一小節が見つかった。
カールがそれを2トラックにコピーしてループを作った。ループはテープレコーダーの上までぐるっと回っちゃいましたよ。テープリールが回らないようにカールがテープで留めて、キャプスタンはつないだままでした。これがマイクスタンドの上――ブームマイクだから横棒――まで届いて、そこからバランスをとるために7インチのプラスチック製リールをぶら下げた。だからテープはぐるぐるぐるぐる回り続けた。これをかけたんだけど、とにかく作業が終わってから、あとで本物のドラムと入れ替えればいいと思ってたんです。ところが実際には、楽器をのせてみると、とにかくいい感じで、『これははずせない』となった。それまでは誰もループがどれほどいい感じになるか、わかってなかった。今では、なんにでもループが使われてますけどね。ドラム・マシーンは自然じゃないからね」
この新機軸が、以降、ギブ、ガルーテン、リチャードソンのチームがプロデュースするレコーディングには、その後しばらくの間使われることになった。「’モア・ザン・ア・ウーマン’でも使ったし、うんとスローにしてバーブラ・ストライサンドの’ウーマン・イン・ラヴ’でも使ったな。それから残念だけど、‘ステイン・アライヴ’は、個々の要素を別々にやるという作業のはじまりでもあったんです。今は誰だって、要素をひとつずつ別に仕上げていくようになりましたけど、それだと失なわれるものも大きい。ひとつの部屋に大勢集まってプレイすることがなくなるからね。大勢で一緒にやると、ある種の幸運みたいなものが大きく働いて面白いものができあがるんだけど、各要素をあとでまとめるやり方にはそれがない」
「ステイン・アライヴ」冒頭のギター・リフは、ベティ・ライトの1972年のR&Bの古典的名曲「Clean Up Woman」に想を得たといわれているが、これにはこれでまたひとつの物語がある。「ステイン・アライヴ」の精妙なプロダクションにも物語がある。「ギター・パートは、彼らが曲を書いて入るときに、床の上で僕が思いついた」とガルーテンは言う。「みんなでごろごろして、バリーがギターを弾いて、歌詞やメロディをいろいろ試しながら曲を調整していました。僕がアコースティックを持っていたので、そこで思いついたんですよ(と、オープニングのギター部分をまねして)、あの“ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダー、ダー、ダー”って。だからみんなでオーバーダブした時にアランに教えてやって、少しずつ区切って音を入れていったんです。アランがギターのパートを弾いて、ギター・パート入りのセクション全部にそれを打ち入れていった。他のセクションについては3人で考えて、バリーがBフラット・コードのことをよく考えてあったので、一緒にギター・パートを入れたり、入れなかったり、という作業をしました。
モーリスについてはね、ベースが典型的なモーリスのベース・ラインじゃなかったんです。’ユー・シュッド・ビー・ダンシング’のベース・ラインを聴けばわかるけど、よりブリティッシュ・インベイジョン風というか、あれがまさにモーリス・ギブなんです。バリーと僕が夢中だったソウル・ミュージック系とはちょっと違う。そこで、ベース・ラインもね、僕のR&Bのルーツから引っ張ってきたラインをモーリスに教えたみたいな感じで、それをセクション単位で入れていった。バリーはいつも拍子にきびしくて、ベースのパートはきっちりさせてました。
ブルー(ウィーヴァ―)がピアノを弾きました。ブルースのピアノ・パートです。編成と指揮はぼくが担当したんですが、ストリングスは共同作業みたいでした。だいたいはバリーのアイディアで、(ブリッジ部分のストリングスのラインをまねて)”ダー、ドゥー・ドゥー、ダー、ドゥー・ドゥー”ってね。それから(ヴァースにつながるストリングスのラインをまねて)”イー・アー、イー、アー”っていうスライド部分がロビンのアイディアだったと記憶しています」
「ステイン・アライヴ」は制作の途中で映画のプロデューサーから横やりが入って、もう少しでダメになるところだったそうだ。「当初、映画のオープニング・シーンに使うとは決まってなかったんです。途中のダンス・シーンに使うつもりだった。そこで途中にモンタージュを入れて、真ん中にバラードっぽいスローな部分を入れてくれ、って言われたんですよ。
で、(バリーとロビンとモーリスが)その通りに書いて入れてみた。だけど僕たちみんな、気に入らなくてね。『これはないよな』って言ったんです。これがきっかけになって、『よし、じゃあ、この曲はオープニングのクレジット・シーンに使おう』っていうことになったんじゃないかと思います。僕たちが自信を持っていたのが良かったじゃないかな。あんなに自信がなかったら、『そうだね、まあ、あっちの方が専門家だし』みたいな反応をしていたかもしれない。でも僕たちは、『ダメだ! これはまずい! ヒットソングになりそうだったものを、これでつぶしたんだ!』と言い張った。もちろん、僕たちは映画作りの人間とは考え方が違いますからね。こっちはレコードを作る側だから。ヒット・レコードがどんなものかならわかっていた。ラジオのポップス局を聴いてたから、『今ならこれがヒットする。変えちゃったらヒットしない』って言ったんです」
制作チームのカンは正しかった。「ステイン・アライヴ」はビー・ジーズ最大の成功作のひとつになる。
甘美なバラード「愛はきらめきの中に」が『サタデー・ナイト・フィーバー』のリード・シングルとなった。繊細であたたかみのある曲だが、メジャー・コードとマイナー・コードの間を軽やかに揺れ動く表現は明らかにR&B風だ。バリーの素晴らしいナチュラル・ボイスのテノールは、この曲できっちり最高のレベルに達している。さらにブルー・ウィーヴァーの複雑なフェンダー・ロードの妙技とガルーテンの流れるようなストリングスのアレンジが宝石のようにきらめく。ギブ兄弟の作品中でもっとも素晴らしいもののひとつといって間違いない。
ギブ兄弟がブルー・ウィーヴァ―と一緒にピアノを使ってこの曲のコード構成をしているブートレグ音源がネットに存在しているが、みんなが一緒に曲のメロディ進行を解決していく様子は聞いていて興味深い。まだ作りはじめの段階で、ギブ3兄弟が最終的な曲のキー・フレーズをいろいろな組み合わせで歌っている様子が聞けるが、ヴォーカルの大半はスキャットだ。最終的にこの楽曲はガルーテンと共に、さらに完成形に近い形でテープ録音された。「’愛はきらめきの中に’のデモを作ったんだけど、デモがすごく良い出来だったので、ファイナル・ミックスができてもまだデモを聴いていました。デモの方がいいような気がして」
「愛はきらめきの中に」の作曲が、これほど協同の、重層的で、密度の濃い作業であったことを思うと、ミュージシャン、コンポーザーとしても活動していたロン・セールが1984年にギブ兄弟に対して版権訴訟を起こしたのはあり得ないことに思える。セールはバリー、ロビン、モーリスが、彼が1975年に書いた楽曲を剽窃した、「愛はきらめきの中に」には8音節が音楽的に彼の曲とそっくりな部分が2箇所ある、と訴えたのだ。当初はセール勝訴だったが、上告の結果、セールはビー・ジーズが彼の楽曲を聞いたことがあると証明できなかったために、判決はくつがえされた。セールの楽曲は版権登録はされていたものの一般に発表されていなかったからである。
「恋のナイト・フィーバー」は『サタデー・ナイト・フィーバー』から発表されたビー・ジーズの三番目にして最後のシングルだ。ギブ兄弟がロバート・スティグウッドにアドバイスしたために、このトラックのタイトルが最終的な映画タイトルに影響した(当初は映画は単に『サタデー・ナイト』と呼ばれていた)と言われている。楽曲そのものは、見事に作られた軽快なR&B曲で、キーボード担当のブルー・ウィーヴァーによると思われる、これも見事なオーケストラのアレンジが聞ける。
「ある朝、僕がちょっと試していたら、バリーが来て、’恋のナイト・フィーバー’が始まった」と、ブルーは『The Ultimate Biography of the Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb(究極のビー・ジーズ伝:ギブ兄弟物語)』の中で語っている。「僕、60年代に大ヒットしたパーシー・フェイス・オーケストラの’夏の日の恋’のディスコ・バージョンをずっとやってみたかったんです。で、弾いていたら、バリーが『それ何?』って。だから’夏の日の恋’だよって答えたら、バリーが『いや、ちがう』って言うんですよ。新しい曲だって。バリーが新しい曲想を聞きつけたんです。僕はストリング・シンセサイザーで演奏しながらリフを歌っていたんです」
というわけで、プロデューサーやバンドとの共同作業だった様子がいろいろと語られています。(これはクレジットや版権の問題と複雑に絡み合うのですが)
(その2)もなるべく早くアップします。
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