【1988年3月】「ゴールデン・ボーイの死」(米ピープル誌アンディ・ギブ追悼記事)
1988年3月、アンディ・ギブの死後、アメリカの芸能誌「ピープル(People)」に掲載された追悼記事。
「堕ちたティーン・アイドル、アンディ・ギブの短い波乱の生涯。19歳でスーパースターになった”ビー・ジーズ兄弟の末っ子”は、すべてに恵まれながら、どうすることもできなかった。気前のいい、人好きのする少年は、財産を蕩尽し、ヴィクトリア・プリンシパルとの破局が自分をダメにした、と語った。30歳の若さで破産状態で亡くなったとき、アンディはカムバックのための努力中だった」という、いかにも芸能誌風なコピーがついています。
以下に簡単にまとめてご紹介します。
ある意味でアンディ・ギブの物語はずっと昔に終わっていた。もう一度、新しい物語が始まることがあったのかどうか…今となっては知るよしもない。アンディが活躍したのはなんだか遠い昔のことのようだ。まだほんの10年しか経っていないというのに、誰もが激しいビートに身を任せてダンスフロアで踊り狂い、コカインの危険性も真剣に認識されていなかった、古き良き時代。そのころ、アンディのキャラメルのように甘いファルセットは、甘美なセックスと幼い恋の歌を歌った。
あれから世の中は変わった、けれど無邪気な子どものようなアンディは少しも変わらなかった。「アンディは繊細すぎた。デリケートすぎた」と、アンディのレコード・レーベルだったRSOのフレディ・ガーション元社長は言う。「ふつう、スーパースターと呼ばれる人たちは、鼻先でドアをピシャリと閉められたり、追い払われたりするような経験を何度もして、面の皮が厚くなって、しぶとくなっているものなんですが、アンディには面の皮なんてぜんぜんなかった。彼にはそんな必要がありませんでしたからね。年は重ねても、少しも変わらず、17歳ぐらいで時間が止まっていました」 だからアンディ・ギブが30歳で亡くなったと聞かされても、悲しかったけれど、驚きはしなかった。その死は、長いこと忘れていたはるかな時代のナイーブさ、今はもうない享楽的な無垢の最後の名残りのように思われた。
アンディは、ジョン・ベル―シのように名声の頂点で自己破壊によって燃えつきたのでもなければ、エルビスのように長いキャリアを通して世間を騒がせ続けたのでもない。彼はひっそりと、忘れられない余韻を残して、旅立ってしまった。30歳の誕生日を2日過ぎた3月7日(月)の朝、アンディは原因不明の腹痛を訴えて、オックスフォードにあるジョン・ラドクリフ病院に入院した。3月10日の8時半、さらに検査が必要だと医師に聞かされたアンディは、「わかりました」と答えたが、それからいくらもしないうちに、意識不明に陥り、そのまま亡くなった。
病院側の発表によれば、検死解剖の結果、アンディの「死因は、ごく一般的なウィルスによって起こった心筋炎で、アルコールやドラッグの影響は認められなかった」という。1985年と1986年に、アンディの心筋炎の治療をしたビバリー・ヒルズのウィリアム・シェル医師は、アンディの病気は「ウィルス性」だったという。しかし長年のコカイン濫用がアンディの心臓を弱らせていた可能性も高い。「コカインはごく少量でも心臓に恒久的なダメージを与える」と全米コカイン・ホットラインの創設者であるニュージャージー州サミットにあるフェア・オークス病院のマーク・ゴールド博士は「健康な若者が心不全で亡くなるのは、ドラッグ濫用がらみのことが多い」と述べている。 また、ニューヨークの心臓病専門医ジョージ・エリス博士は、「長期にわたるコカインの使用は心臓肥大を引き起こす」という。
アンディは1985年に治療を受けた。1986年初頭、ロサンジェルスから兄ビー・ジーズが住むマイアミにもどったときには、ドラッグと手を切ったものと思われていた。当時すでに彼は破産状態で、1987年10月には破産申請を行っている。その負債総額は、150万ドルに達していた。このうち100万ドルは、かつてのマネージャーだったロバート・スティグウッドへの負債である。
アンディの兄であるバリー、ロビン、モーリスは、生涯、アンディを精神的に支え続けた。最後の2年間は経済的にもアンディを支え、アンディにアパートを提供して、1週間あたり200ドルの生活費を与えていた。昨年のクリスマスに、バリーはアンディをアイランド・レコードの重役に引き合わせ、10年ぶりのレコード契約をとりつけた。「ぼくにとっては再出発のチャンスだ」とアンディは熱く語っている。「これではいけないと気づいて、正しい道に戻るには、まず、どん底を経験しなくちゃいけないのかもしれない」 1月に入って、アンディはオックスフォードシャーにある兄ロビンの広さ16エーカーのプリベンダル邸に身を潜めて、カムバック用の曲を書き始めていた。
アンディはマン島で生まれ(訳注:実際にはマンチェスター生れ)、オーストラリアのブリスベーンで育った。兄たちがビー・ジーズとしてのキャリアをスタートさせた土地だ。1960年代末、ビー・ジーズが大成功したとき、10歳そこそこのアンディと両親、元ビッグバンド歌手だったバーバラと元ドラマーだったヒューは、スペインのイビサ島に居を構えた。ロールスロイスの送迎を受けるような暮らしをして、学友の不興を買ったアンディは、学校生活に退屈して13歳でドロップアウトし、バリーにもらったギターを持って地元のバーに出演するようになる。いずれは4人目のビー・ジーズになるものと考えていたアンディだが、彼自身も魅力的な声の持ち主だったこともあり、家族はオーストラリアでの武者修行を提案した。オーストラリアで1曲だけヒットを出したアンディと契約したのは、兄たちのマネージャーだったロバート・スティグウッドだ。兄たちと共作したヒットが続々と生まれ出る。世界のひのき舞台に立ったその時から、アンディは「ベイビー・ビー・ジー(ビー・ジーズの末っ子)」と呼ばれた。アンディはこのレッテルを嫌ったが、逃れようもなかった。
それでいて、アンディは兄たちに畏敬の念を抱き、自分自身の才能には疑問を持っていた。「自分ではほとんど何もしていないと思う」 アンディはそう発言したことがある。「自分でもラッキーだったとわかっている。兄たちがいなかったら、こんなに早くこんなに成功したりできなかっただろう」 1983年から1985年にかけてアンディのエージェントをつとめたジェフ・ウィッチャスは語る。「アンディに、『鏡を見てみろよ。君にはなんだってある。ルックスがよくて、才能がある。女性にも好かれる』って、よく言いました。アンディは男性にも好かれてましたね。でも、いつも感じましたが、アンディ自身は、鏡を見ても、そこに何も見えなかったんだと思います」
この”無”がアンディをさいなんだ。オーストラリア時代、19歳だったアンディは、当時18歳だったキム・リーダーという受付嬢に出会って結婚した。1977年にふたりはウェスト・ハリウッドの小さなアパートに移り住んだ。「アンディは、急に、ひとりで山に行ってくる、とかいうんです」とキムは当時を振り返る。「ドラッグに取り込まれてしまったんです。アンディにとって一番大切なのがコカインでした。アンディは鬱になって被害妄想になりました。わたしが結婚した彼とは別人になってしまったの」 1978年、妊娠したキムは、オーストラリアにもどり、ピータという娘を産んで、アンディと離婚する。1980年に、2歳の娘とロサンジェルスにもどったキムに、アンディは金のブレスレットを贈った。そこには「心からの愛をこめて、A.G.」と刻まれていた。それがキムとピータがアンディに会った最後となる。
すでにディスコはふたりの結婚と同じぐらい輝きを失っていた。当時は誰にも予想できなかったが、その後、アンディは二度と再びヒットアルバムに恵まれることはなかった。新しいチャンスなら何度もあった。だが、アンディの対応はいつも同じだった。1981年に、プロデューサーのブラッド・ラックマンがマリリン・マックーとアンディをテレビショー「ソリッド・ゴールド」のホスト役に迎え入れた。「アンディは、とてもチャーミングで、繊細で、カリスマ性のあるパフォーマーでした。そこが気に入ったのです」と彼は語っている。だが、アンディが番組に穴をあけるようになると、チャーミングどころの話ではなかった。「アンディには悪気はなかった。態度が悪かったわけでもありません。自分でもどうしようもない問題を抱えていたのです。アンディは誰もに愛されたいと願っていました。あんなに可能性があったのに、彼自身がそれを信じられずにいたのです」 たび重なる警告の後に、ついにアンディは番組を降ろされた。
アンディの悩みのひとつは恋愛問題だった。その1年前、23歳だったアンディは、31歳のヴィクトリア・プリンシパルと出会い、夢中になった。「二人の間に問題があると」とラックマンは振り返る。「アンディはすっかりまいってしまった」 しかも問題は頻繁に起こり、13か月後、ふたりは破局する。恋の終わりが来たとき、アンディは、「ぼくはすっかり打ちのめされて、すべてがどうでもよくなってしまった」と語っている。「四六時中コカイン漬けになって、1日に1,000ドル分ぐらいのコカインをやっていました。自分の部屋に鍵をかけて閉じこもって、2週間も寝なかったりしました。プロデューサーが何度も電話をかけてきて、迎えの車をよこしたりしたのですが、ぼくは行こうとしなかったんです…。ぼくがスターの座から転落した大きな理由はヴィクトリアとの恋愛だと本当に思っています」
ヴィクトリアの意見は違う。「わたしたちが別れる前から、アンディはドラッグをやっていました。うまくいかなくなったのもそのせいです。わたしは彼を助けようとできるだけのことをしました。でも最終的に、わたしかドラッグかのどちらかを選んでくれ、と彼に通告したんです」
アンディには無理な選択だったようだ。1981年に、アンディはパム・ドーバーの相手役として、ギルバートとサリヴァンのミュージカル「ペンザンスの海賊」のロサンジェルス公演に主演するチャンスを与えられた。アンディはきらびやかな初日の夜のパーティを大いに楽しんだ。「でも三週間もすると」と、RSOの元広報担当のロニー・リッピンはいう。「アンディは電話をしてきて、さびしそうな様子なんです。彼は、毎晩がオープニング・パーティのようであってほしかったんですね」 まもなく、アンディはまた舞台に穴をあけはじめる。
1982年に、アンディはもっと大きなチャンスを与えられた。アンドルー・ロイド・ウェバーの「ヨセフ・アンド・アメージング・テクニカラー・ドリームコート」ブロードウェイ公演の主役である。アンディは6週間で12回の公演に穴をあけ、またも役を降ろされる。「アンディがリハーサルに入ったときには、兄たちは飛び上がって喜んでいました」とショーのプロデューサー、ゼブ・バフマンは記憶している。「両親もイギリスからやって来ました。アンディは、再出発するんだ、といつも言っていましたね。でも週末になると姿を消して、月曜日になっても出て来ないんです。そして火曜日になると、また、しおれきった様子でやってきます。まるで悪いことをした子犬みたいにね。気持ちだけはあるのですが、やり抜くだけの力がなかったんです」
驚異的な成功を収めたアンディは、コカイン濫用でも悪名高かった。1977年に19歳になるかならないかでオーストラリアをあとにし、最初のシングル「恋のときめき」でチャートのトップに踊り出た。その年、アンディはグラミー賞の2部門でノミネートされ、200万ドル近く稼いでいる。その翌年にはさらにもう100万ドル。デビュー以来3曲連続チャート1位という記録を持つ男性ソロ・アーティストは彼ひとりである。21歳になるまでには全世界で1500万枚のレコードを売り上げていた。しかし稼ぎのほとんどは密かにコカインに消えた。
あまりにも早く大人の世界で生きなくてはならなかった子どものように、アンディは日常世界のごくあたりまえの事がらに対応できなかったようだ。友人だったパム・ドーバーはアンディが「一緒に食事をすると、マスターカードの使い方もよくわかっていなかったりした」と話している。
けれどもアンディは浪費することだけは知っていた。ドラッグを含め、稼いだ大金をさまざまなものに使いまくった。「アンディは何百万も浪費した」とマネージャーだったロバート・スティグウッドはいう。「被害妄想のようになってしまって、一般の飛行機には乗れなくなり、プライベートの飛行機をレンタルしていた」 だがすでに下降は始まっていた。「もう特別待遇を受けられなくなると、それがつらかったんです」と、スティグウッドが音楽事業から撤退したあと、1983年から85年にかけてアンディのマネージャーをつとめたマーク・ガーヴィッツは、アンディは「ツアーに出て気が滅入ると、キャンセルしたがりました」という。 家族は、コカイン問題をなんとかしろと、繰り返しアンディを説得した。
1985年、アンディはカリフォルニアのベティ・フォード・センターに短期入院する。だがアンディを本格的な治療に取り組ませるまでには、家族がそろって何週間もかけて説得する必要があった。それでもまだ、広報担当のマイケル・スターリングは、最終的にアンディを納得させるにはエリザベス・テイラーと電話で話させるしかなかった、という。友人たちの話では、1986年にサンタ・バーバラにある別の施設に入って初めて、アンディはドラッグと手が切れたのだという。
アンディが昨年10月に提出した破産申請書によれば、1985年の収入は24,727ドル、1986年にはわずか7,755ドルである。アンディは物件の販促活動と引き換えにマイアミにある豪華なペントハウスを無料提供されて住んでおり、すっかり生まれ変わったように思われた。アンディはゲイリー・ハート上院議員とのスキャンダルが発覚する以前には、マイアミ仲間だった女優のドンナ・ライスと数回デートしたこともあった(訳注:当時、大統領選出馬を考慮中だったハート上院議員の失脚の原因となったスキャンダルに、女優のライスがからんでいました)が、ヴィクトリア・プリンシパルと別れたあとは、誰とも真剣に交際することはなかった。「たくさん読書していた」とギブ・ファミリーのビジネス・マネージャー、ディック・アシュビーは語る。「いろんな意味で、孤独の人でした」 公けの場に出るのはチャリティ・イベントのときぐらいで、めったにないそうした場では、ギターを借りて兄たちのバックをつとめた。「元気そうだった」とスティグウッドはいう。「でも、私が知っていた若々しい、いきいきした彼はもうどこにもいなかった」。
そして最後のものとなったチャンス、ついに実現しなかったチャンスが訪れた。今年のはじめイギリスで、アンディはアルバムの準備にとりかかった。朝9時に起床し、兄ロビンが所有する広大な地所内で、ときおりレトリーバーのサムを散歩させて気晴らしをする以外は、懸命に仕事に打ち込んだ。母親がロスからやってきて、アンディの身の回りの世話をし、食事を作った。ふたりはアンディの30歳の誕生日を、誰もよばずにふたりきりで祝った。アンディは近くにあるテームの町にもほとんど足を運ばなかった。それでも、ときにアンディを見かけた人は、みな、アンディは明るく前向きで健康に見えたという。今から2ヶ月前、アンディはシドニーにいる元妻のキム・リーダーに電話をして、10歳になった娘のピータを会いに来させてくれないか、と頼んでもいる。キムは「ノー」とは答えたが、アンディが9月にオーストラリアを訪ねることには同意した。ふたりは8年間も会っていなかったが、アンディは定期的にキムに電話しており、ときには5時間も話すこともあった。
アンディの死を知らせる最後の電話を受けたとき、キムは驚かなかった。「いつか、こういう知らせの電話が来ることはわかっていました」とキムは語った。「時間の問題だったんです」 ふたりの関係は不思議なものだった。ほとんど連絡も取らずに、長い時間が流れている。けれどもキムは、なぜアンディが関係を絶たなかったのか、わかるような気がしている。「わたしたちふたりは」と、キムは自分と娘について言っている。「アンディにとっては現実との唯一の接点だったのだと思います」
People誌1988年3月28日号より ―エリック・レヴィン
この記事が書かれて一年後のインタビューで、母親バーバラさんは、「アンディが亡くなったのはヴィクトリア・プリンシパルと別れて何年も経ってからで、見出しに大きく、彼女の破局がアンディに影響し続けたかのように書くのは、マスコミのミスリードだ」と語っています。
「ゴールデン・ボーイ」と訳した記事のタイトルですが、実際の英語は「ゴールデン・チャイルド」です。日本語としては「ボーイ」の方が定着しているのではないかと思って、こう訳しましたが、英文に「チャイルド」とあるのは、アンディの無垢と幼さ、現実への対応能力の欠如などと同時に、実現されなかった果てしない可能性を思って選ばれた言葉なのでしょう。
本サイトでも取り上げた最近のマイアミ・ヘラルド紙のインタビューで、ビー・ジーズとバリーのエンジニアを長年つとめてきたジョン・マーチャントが、バリーについて、
「アーティストとして生き残るには、傷つきやすいと同時にしぶとくタフでないといけない。これはどうしようもない逆説です。そしてバリーはまさに生き残るタイプなんです」
と語っていますが、そういう意味で、アンディはまさに生き残れないタイプだったというべきでしょうか。バリーがいま最後に頑張っているのは、資質的には当然だったのかもしれません。また、繊細さとタフさ、芸術性(前衛性)の高さと商業性の高さの不可思議な混淆が、ビー・ジーズという名の成功体を作り上げていたのだろうと思います。それはまさに、バリー、ロビン、モーリスという稀有の個性の混淆でもあったことでしょう。
ビー・ジーズ・ファンのブログ「土曜の夜はフィーバーだ」で、今年のアンディの誕生日の記事「誕生日おめでとうアンディ・ギブ」に、
タフでなければ生きてゆけないけど、優しくなければ生きている意味がない。けどでもあまりも優しすぎたアンディ・ギブ
と書かれているのは、まさにそうだなあ、と思います。
母親のバーバラさんによれば、アンディの最後の言葉は、「まさかこれで死んだりしないよね?」というものだったそうです。
記事中に登場する忘れ形見のピータさんは美しい金髪の女性に成長し、4月発売のネクスト・ジェネレーションによるビー・ジーズのトリビュート・アルバムに歌手として参加しています。
【People誌の英文記事全文は同誌のオンライン版にアップされています】
{Bee Gees Days}
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