【2020年12月NYタイムズ紙】”バリー・ギブには使命がある” (その1)

ビー・ジーズの名曲の数々をバリーがリビジットし、錚々たる顔ぶれのアーティストたちと共演した名デュエット・アルバム『グリーンフィールズ:ザ・ギブ・ブラザーズ・ソングブック』の発売にあわせ、ニューヨーク・タイムズ紙の取材に応えてバリーが”ビー・ジーズ最後のひとり”としての決意を語ったロング・インタビュー(ニューヨーク・タイムズ紙2020年12月2日付け、同12月11日付けで更新)。
以下にざっとまとめてご紹介します。(けっこう長いので2-3回に分けようかと思います)
バリー・ギブには使命がある:「ビー・ジーズの音楽を生き続けさせること」
ビー・ジーズ最後のひとりとなったバリー・ギブが、ヒット曲の数々を振り返り、初恋の音楽であるカントリーをフィーチャーしたデュエット・アルバムについて語る。
ビー・ジーズのメンバーとして最後に残ったバリー・ギブは、ビスケーン湾にほど近い南フロリダの自宅スタジオから電話で取材に応じてくれた。
「昔は素晴らしいボートを持っていたんですよ」とバリー。「スピードボートです」 バリーはこのボートを『Spirits Having Flown』と名付けた。1979年にリリースされ、全世界で2500万枚以上を売り上げたビー・ジーズのアルバムにちなんだ名前だ。「湾の中をボートで飛ばしながら曲想を得ていました」
ボートさえ必要ない時もあった。ある日、ビー・ジーズのマネージャー、ロバート・スティグウッドから電話がかかってきた。ミュージカル『グリース』の映画版を製作中で、新しい主題歌が必要だという。バリーはまだ映画を観ていなかった。これは創り手にとっては大きな挑戦だ。
「どうやって’グリース’なんてタイトルの曲を書いたらいいんだろうなあ、と埠頭を歩き回っている時、ふと思いついたんです。グリースというのは言葉だ。その言葉について書けばいいんだ、とね」
グリースこそがその言葉、君が聞いたその言葉だ、とバリーは書いた。グルーヴがあり、意味がある、そんな言葉だ。
こうしてバリーは問題を解決し、光明を見た。’グリース’こそがその言葉なんだ、素敵な言葉なんだ。フランキー・ヴァリがレコーディングした「グリース」は1978年5月にリリースされ、8月末にはビルボード・ホット100チャートでナンバーワンの座についていた。
この曲はバリーにとってこの年7曲目のナンバーワン・ヒットとなった。それまでに映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックに収録されている「愛はきらめきの中に」「ステイン・アライヴ」「ナイト・フィーバー」「イフ・アイ・キャント・ハヴ・ユー」、さらには弟アンディ・ギブのために書いたソロ・ナンバー「シャドウ・ダンシング」「愛の面影」に続く7曲目だったのだ。1978年3月3日付のビルボードHot 100チャートでは、ギブ兄弟の楽曲がウィークリー・トップ5のうち3曲までを占めた。
この状態——ナンバーワン・ヒットのオンパレード——は長いあいだ続いた……そして…終わった。
1970年代初頭、ビー・ジーズはアメリカでレコードを作ってみようとマイアミにやってきた。この試みがうまくいって、以来、バリーはずっとマイアミに住んでいる。
「ただの大きくて古い家ですよ。大邸宅なんてものじゃない」とバリー。その家に住んでいる間に、隣人にはマット・デイモン、ドウェイン・ウェイド、パブロ・エスコバル等がいたという。
いま74歳になったバリーのライオンのたてがみのようだった名高い髪は、白髪まじりでボリュームも落ち、オーストラリア風の革製のブッシュハットの下におさまっている。いまだに立派な歯ならびの間から、ショーン・コネリー風の独特のアクセントを持つ豊かな声が流れ出してくる。マン島で生まれ、マンチェスター(イングランド)とオーストラリアで育ったという経歴だけでは説明しきれない独特のアクセントである。
プロデューサーのデイヴ・コブと共にナッシュビルでレコーディングしたバリーの最新アルバム『グリーンフィールズ:ザ・ギブ・ブラザーズ・ソングブック Vol.1』は、1月に発売される。これに先立ち、今月(訳注 2020年12月の記事です)フランク・マーシャル監督によるHBOドキュメンタリー『ビー・ジーズ 栄光の軌跡』が公開される。オープニングの場面には、バリーと双子の弟ロビンとモーリスが大勢の記憶にある通りの姿で登場する。襟元が開いたラメ入りの銀色のシャツを着て、はだけた胸元に大ぶりのメダリオンが輝いている。
ふと、スポットライトがバリーに集まり、グループの他のメンバーたちが画面から消えていく。これは文字通り彼らの上に落ちる暗い影の伏線だ。1979年以来、バリーは3人の弟を亡くしている。末弟アンディは、バリーの後押しでソロ・アーティストとして頭角を現したものの薬物依存に苦しみ、1988年に30歳の若さで心筋炎により逝去。モーリスは2003年に腸捻転による合併症で、ロビンは2012年に癌と腸手術による合併症で、それぞれに世を去った。
こうしてバリー・ギブは、現代のスタンダードとなった名曲の数々を集めたカタログの守り人となった。ギブ兄弟の曲は、ジャニス・ジョプリン(ウッドストックで「ラブ・サムバディ」を歌った)、デスティニーズ・チャイルド(3枚目のアルバムで「愛のエモーション」をカバー)、アル・グリーン、テキサスの不謹慎なパンクバンド、ザ・ディックス、ブルース・スプリングスティーン、ミス・ピギー等によって歌われ、レコーディングされ、いまやカラオケがらみの理由だけでも、ビー・ジーズの曲が歌われない世界は想像しにくい。だが、それでも酸いも甘いも経験してきたバリーには、永遠に続くものなど何ひとつないということがわかっている。
「僕の使命は僕たちの音楽が生き続けるようにすることです。僕たちや、僕とは関係なく。いつか、弟たちのように、僕もこの世を去る日が来る。それでも僕たちの音楽には生き続けてほしい。だから、何があっても演奏し続けるつもりでいます」
バリーは昨今のポップ・ミュージックの知識はほとんどなく、ニックネームや番号で呼ばれる子どもたちが主役の世界だと思っている。誰か、彼らにきちんとアドバイスしてあげればいいんだが、というのがバリーの希望だ。
「父は新しい音楽はあまり聴きません」と息子のスティーヴン・ギブは語る。「聴くのは父の青春時代の音楽です」
バリー・ギブが音楽について覚えているいちばん古い記憶はハーモニーだ。両親の家でひとつしかないスピーカーから流れていたエヴァリー・ブラザーズやオハイオ出身のジャズ・ボーカルの4人組ミルズ・ブラザーズ。バリーは、そこから他のあらゆるものへと一本の線がつながっているのを感じとっている。それが彼とロビン、モーリスが一緒に歌い始めた理由だ。
しかしその後、バリーの心をとらえたのはカントリー・ミュージックだった。特に、1958年、バリーが12歳の誕生日を迎える直前に、ギブ一家がイギリスからオーストラリアに移住してからはなおさらだった。「ブルーグラス音楽に夢中になりました。子どものころ、ブルーグラスにあんなにほれこんだのは1958年のオーストラリアでは他に聴ける音楽があまりなかったからでしょうね」(その2へ続きます)
ビー・ジーズの音にカントリーの要素があるというのは、以前から指摘されていました。「マサチューセッツ」はカントリー・フォークとかカントリー・ロックとか言われることもありました。けれども意外や、歌声にカントリー風の要素があると思われがちなロビンではなく、カントリーにこだわっていたのがむしろバリーであることは、1969年から1970年にかけてのソロ時代に3兄弟が発表したソロ・シングルのうち、バリーの「想い出のくちづけ(I’ll Kiss Your Memory)」が全くカントリー風だったことにもうかがわれます。『キューカンバー・キャッスル』もカントリー色の強いアルバムでした。
ところで、バリーの「アクセント(訛り)」が話題に出ていますが、70年代に日本公演をしたころには強いイギリス訛りで話していたバリーが80年代にはかなりアメリカンな英語に変わっていたのにはちょっとびっくりしたことがあります。逆にロビンは、60年代のインタビューなどではちょっと気取った感じの(?)イギリス英語を話していましたが、今世紀になってアジア・ツアーをしたころはわりとイングランド北部訛りが強くなっていたように思います。年齢を重ねてリラックスして地を出せるようになったのかな、などと思ったりしていました。
そのバリーがカントリー音楽への”初恋”をつらぬいて制作したのが『グリーンフィールズ』だったわけです。
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