バリー・ギブ「サンデーナイト」インタビュー
弟たちへの思いを語るバリー・ギブ(2012年9月)
バリーが驚愕のワールド・ツアー宣言をしてからすでにほぼ2週間。すっかり遅くなってしまいましたが、オーストラリアのテレビでバリーが「最後のひとり」となった心境を披歴した「サンデーナイト」インタビューの内容をご紹介いたします。
インタビュアーのラニー・サドラーは2009年『アルティメイト』の発売にあたって元クライテリアスタジオでバリーとロビンに楽しいインタビューをした人です。当時は「あれもしたい、これもしたい」とふたりのこれからの活動について夢を語ったふたりでしたが、ラニーの話では、今回マイアミで再会したのは「別人のように悲しみに打ちひしがれた」バリーだったそうです。それでも彼女自身の率直で明るい持ち味もあるのでしょう、バリーとの間に気持ちの良い人間的なやりとりが成立している様子を見ることができます。
冒頭の映像はインタビューの前半です。後半はこちらをご覧ください。
冒頭、マイアミの通りを車で走るふたり。
Q:これがいわゆる「Jive Talkin’」の生まれた橋ですか?
B:と思います。(「チャッチャッチャッ」と口ずさむ)発想のきっかけになった橋です。曲って何かひょっとしたことから生まれるんですよね。いまロビンのために書いている曲があるんです。「ジ・エンド・オブ・ザ・レインボウ(虹が果てるところ)」という曲です。「今日こそ夢に見ていた”明日”なんだ、冬は夏になり、虹の果てにたどりついた、探し求めていたものは見つかったんだ」という内容で、“時”に関する曲です。
Q:「“現在”を満ち足りて生きよう」ということですね。
B:ロビンにはいつも言っていたんです。「夢はかなったんだよ。もうよそう。ゆっくりして楽しもうよ」って。
Q:意外に知られてないことなので、ごく初期の話から始めたいのですが、実はそんなに恵まれた環境で育ったわけではないのだそうですね。
B:むしろ貧しかった。マンチェスター出身で、こわいもの知らずでした。
ナレーション(N):こうしてビージーズ一家は新天地を求めてオーストラリアに移住、1958年にブリスベーンの北にあるレッドクリフに居を定めます。
B:オーストラリアは他とまったく違います。オーストラリアこそぼくの国、ぼくの心の故郷です。
Q:スター志望だったんですね?
B:そう、ぼくたちは何よりも名をあげたかった。ぼくたちはふたごとその兄という三人組で、あまり似てはいなかったけれど、とても仲がよかった。
Q:ほとんど三つ子?
B:モーリスお気に入りのジョークは「実はおれたち三つ子で、バリーはできそこないなんだ」というものでしたね(笑)。楽しかったなあ。いっつも三人でふざけていて…。まじめになることなんかぜんぜんなくて、いつも笑ってました。母のヘアブラシに缶詰の缶をくっつけて「マイクだ」って言ってね。最初はそんな感じだったんです。
Q:オーストラリアを出た理由は?
B:大志!
N:ロンドンに渡った彼らはビートルズのマネージメントに見出されます。ロバート・スティグウッドは最初のシングル「ニューヨーク炭鉱の悲劇」をビージーズという名前を伏せて発表させました。
B:ロバートはアメリカのラジオで流すときにわざとアーティスト名を伏せたんです。ビートルズの覆面バンドだと思わせようとしたんですね。
Q:「マサチューセッツ」についてですが、「マサチューセッツ」の綴りも知らなければ、実際に行ったこともなかったというのは本当ですか?
B:行きはしましたよ。
Q:あとになって、ですよね?
B:「マサチューセッツ」はフラワーパワーについての曲なんです。フラワーパワーも流行のひとつでやがては過ぎ去っていく。家に帰ろうよ、という歌です。
Q:お父様が「ステージでは笑顔を絶やすな」という教育をされたそうですね?
B:父は観客のうしろに立っていて、「ロビンに(ちゃんと笑えと)言いなさい」とか合図してくるんです。父はとても冷静で、感情をあらわすことができない人でした。
Q:ほめられたことは?
B:ないですね。「まあ、良かった」とか「いいんじゃないか」とか言われたことはありますけどね。
Q:だからがんばれた?
B:そうですね。結局は認められたくてやるわけだから、簡単に認められてしまったら努力もしなくなる。
N:1969年にはロビンがグループを去りますが1971年に再結成。70年代半ばにマイアミへ本拠地を移動して、やがてディスコブームに火がつきます。
Q:爆発的な人気でしたね。
B:自分たちとしては一種隔絶した状態でした。台風の目の中にいるように自分たちでは実感がなかった。
Q:乗っている車にファンが押し寄せたり、行く先々で何千という人たちに囲まれる感想はいかがですか?
B:素晴らしいです…よね?
Q:わたしに聞いても無駄です。そんな経験ありませんって!
B:まずメロディを仕上げて、二~三日後にそれに詞をつけるというやり方でした。メロディをすっかり自分のものにしておいて、歌詞にとりかかる。メロディに合わせて歌詞を書くんです。
Q:チャートがビージーズに独占された時期がありましたね。
B:トップ10のうちの5曲がぼくらの曲、ライターとしてはトップ5のうちの3曲がぼくの曲だったことがありますね。
Q:各国のトップアーティストと組んで仕事をしてきた中で、一番こわかったのはバーブラ・ストライザンドだというのはほんとですか?
B:そうですね。
Q:彼女、こわいんですか?
B:そうですね。彼女のことは大好きなんですけど、これがまたこわいんだなあ(笑)。
Q:こわいって、どなりちらすとか?
B:いや、不機嫌になるんですよ。機嫌がいいかと思うと、怒り出す。ご機嫌かと思うと怒り出す。その繰り返しなんです。
Q:バリー・ギブといえばファルセットですが、ファルセットを“発見”した経緯について教えてください。
B:(ファルセットで)はい。話せば長いんですが…(笑)。ファルセットを使い始めて、だんだん曲全体がファルセットになっていきました。何しろウケていましたから、みんな嬉しくて。ロビンが「やるんだよ。これ、ヒットするよ。必ずヒットする!」って言うんです。あのサウンドで6曲続けてチャートのトップに送り込んだわけですから。ロビンは何よりも成功を求めていました。成功がロビンのモチベーションだったんです。
Q:成功していることを認めたくないと言う面はありましたか。いったん成功を認めればそこで止まってしまう。こうした姿勢があったからこそ、謙虚でいられたのでしょうか。
B:大地にしっかり足をつけていること。成功なんて信じるな。結局すべては過ぎていくんだから、ということですね。この10年を見てください。すべては現に過ぎ去り、変化していく。
N:マイアミをドライブするバリーは過去を回想しては、友人であったマイケル・ジャクソンの思い出を話してくれました。
B:マイケルとは楽しかったなあ。彼、言うんですよ、「バリー、気をつけてね。みんな、君の音楽を狙ってるんだよ。みんな、ぼくの音楽に目をつけてるんだよ!」「わかった、わかった、マイケル」ってね(笑)。
Q:ご自分が成し遂げたことの中で何が一番大きいと思いますか?
B:家族を持てたことです。子どもたち、そして孫たち。これこそ“本物”ですからね。
《車はバリー邸に到着、あいかわらずの美しさのリンダ夫人がふたりを出迎えます》
Q:45年――ショービジネスの世界でも数少ない長い結婚生活の秘訣はなんでしょう?
B:さあ、なんだろうなあ。わからないなあ。
リンダ夫人:笑いが絶えないってことでしょうね。
N:リンダ夫人となかむつまじいバリーですが、弟たちとの間には深く強い絆がありました。
B:ぼくたちがお互いにどう思っていたかは外部の人間には決してわからないと思います。ほんとのところはぼくたちしか知らない。ほんとに結束の固いグループだった。三人でひとりの人間みたいで…三人そろって同じ夢を追いかけていた。何よりもそれが忘れられない。失って何よりもさびしいのがそれです。
N:ロビンは4カ月前に、バリーが「モー」と呼ぶモーリスは2003年に亡くなりました。バリーと20歳も歳が離れていた末弟のアンディはティーンエ―ジャー時代からソロアーティストとして活躍し、1988年に亡くなりました。
B:アンディははっきり言ってくれませんでした。心臓に問題があったのに、家族のほとんどに内緒にしていわゆるLA式の刹那的な生活を送っていた。
Q:あとの三人がそこまで落ちることを避けて通れたのに、なぜアンディは?
B:ぼくたちだって避けて通れたわけではありません。それぞれが深みに落ちたことがあります。
Q:悲しい年になりましたね。
B:というより悲しい10年になりました。モーが死んでからのこの10年です。彼は48時間で行ってしまった。元気でごく普通で、いつも通りクレージーだったけど、それがあれよあれよという間に重体になり、行ってしまった。ロブの場合はまた違います。ずっとどこか悪いんじゃないかと思っていたんです。でも本当にどこか悪いと人間ってそれを言うまいとするものなんですね。
Q:それじゃロビンは何も言ってくれなかったんですか、ずっと?
B:そうです。今でさえロビンの家族は死因はガンじゃなかったと言っています。ほんとはどうだったか言いたがらないんです。でもガンはガンですよ。
《少年時代の三人の初めてのテレビ出演の画像を見つめるバリー》
Q:つらすぎますか?
B:きついですね。
Q:思い出して?
B:いや、胸がつまります。
Q:かけがえのないふたりですものね。
B:(ささやくように)そうです。
Q:だいじょうぶですか? つらいですよね? 大切なふたりだから。
B:そうです、ずうっと…。結局、音楽を通してこの悲しみと向き合うしかないと思っています。
Q:ビデオを見て思い出します? この最初の…?
B:もちろんです。自分たちでもすごいって知ってたんです。だからやってみた。三人で約束したんです。あの…ちょっと休ませてください。
Q:もちろん。
B:ビデオをお見せしたのがいけなかったんですね。ごめんなさい。
Q:いや、いいんですよ。こんなこと、初めてなんだ。
B:これまでは泣いたりしたことがなかった?
Q:そうね。
B:ああ、バリー。ごめんなさい。
Q:いいんですよ。これが人生ですよね。こんなこと初めてです。…一番悔やんでいるのはどの弟もちょうど関係がぎくしゃくしているときに亡くなったことです。これからその事実を背負って、見つめて、生きていくしかない。もちろんいつだっていさかいはありました。でも弟を亡くすごとに、それがちょうど関係が悪い時だなんて、苦しすぎます。人生には今まで見えていなかったいろんな面があるんだということがわかってきました。そしてなぜかぼくが最後のひとりになってしまった。どうしてかわからない。ぼくが一番上なのに。だからわかろうとしたりしないで、ただただ前進しようと思います。
N:バリーは来年の2月にオーストラリア公演を行います。ホームムービーや思い出話、レッドクリフで過ごしたやんちゃな子ども時代の話などをステージで披露する予定です。
B:ここに三人で立って、「もう二度と法律に反するようなことをするのはよそう」って決めたんです。
N:レッドクリフがあるモートンベイの市長もマイアミ入りしました。
B:「このままじゃ犯罪者になるか、有名になるかのどっちかだ。いまここで決めよう」ってね。ちょうどそのときぼくはウルワースで万引きしたばかりのペンナイフを持ってたんですが、それを海に投げ捨てて、以来二度とふたたび物を盗んだりしていません。
N:来年、レッドクリフで遊歩道にビージーズという名前がつけられることになっています。実物大のビージーズ像も作られています。
Q:すごいですね。
B:ぼくにとって今日という日は忘れられない日になりました。今日初めてああ弟たちはみんな行ってしまったんだと認めることができた。つらいけれど、これまでは認められずにいたので、お礼を言わせてください。今日までどうしても認められなかった。認められないことだったんです。
Q:ロビンが行ってしまったと?
B:みんな、みんな行ってしまった。
Q:あなたがオーストラリアのステージに立つとき弟さんたちもみんなそこにいるのでしょうか?
B:みんな、ぼくと一緒にそこに立っていてくれるはずです。いつもいつも和気あいあいというわけではなかった、それは本当です。でもほんと、楽しかった。今日からぼくには思い出がある。今日はいろいろな思いを吐き出すことができました。どうなるか自分でも予想がつかなかったんです。ロビンが死んでからインタビューを受けていなかったので。今日はほんとにありがとう。
途中、涙を見せていったん取材を中断するバリーですが、その時の映像でしょうか、「どうしてぼくはまだ生きているのかその理由を探したい」と語るバリーの姿も挿入されています。
ツアーのチケット発売開始にあわせて、バリーのインタビューが他にもいくつか登場していますので、後ほどご紹介します。
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